(日本語は下にあります)
【ENG】
My grandfather passed away on December 31, 2017 at the age of 97.
"It's so typical of Grandpa to pass away on December 31."
When I said that at the funeral, my brother didn't seem to like it and said,
"I don't know. If Grandpa lived until January 1, you'd say that's just like him, too."
Grandpa ate and drank a lot until just before he was hospitalized at the end of 2017. After he lost most of his sight, he did not walk much and I think he gradually weakened from there. Still, he was a very strong man.
When I was in my twenties, I went to my parents' house one summer and noticed that they had two rice cookers. I asked my mother, "What's wrong?", she answered, "Granpa couldn't swallow hard rice anymore... so we cook porridge in the other rice cooker. My grandpa was already nearly 90 years old at the time, and I remember feeling depressed, wondering if he would finally lose the ability to eat.
When I returned home that winter, there was only one rice cooker. I wondered if Grandpa had finally stopped eating even porridge and asked my mother, sshe said, "What do you mean?" ...
"Uh... I thought you were cooking porridge for Grandpa because he couldn't eat hard rice?"
"Grandpa? ...Grandpa eats just fine."
My mother is the type of person who forgets things quickly, so that did not surprise me, but I was surprised and strangely satisfied that Granpa, who I thought had lost his ability to eat normally, had recovered. He had always been the kind of person who would always come back from the brink of death. According to my father, Grandpa used to say, "My life is a pickup". Perhaps it is because Granpa himself thought he had died many times, but each time he was saved just in time.
After the funeral, I found a collection of compositions that is a collection of 50th anniversary commemoration of their graduation, produced when Granpa was about 65 years old. It seems to have been made by a group of graduates of the agricultural school he attended once upon a time. Most of what was written on his page was about the war, and one of the chapters was "I died three times".
I am not confident that I can translate it accurately, so I am posting only the Japanese of the text at the end of this post. It was written that before he was drafted, he was seriously ill with typhoid fever in Taiwan, and his employer at the time was informed that he had died..., during the war, he nearly died in a struggle with an enemy soldier with a rifle in China..., he advanced under a hail of hand grenades and captured an enemy base (but for some reason, his allies were told that his platoon had been wiped out). He calls each of these his first, second, and third deaths.
It is because Granpa picked up (or was picked up by) the lives he almost lost over and over again that my father is here, I am here, and my sons are here. I realized that the contents of this collection of writings are not unrelated to us (in fact, they are very very related), and I decided to leave them in HIVE so that my children can read them someday. I shudder to think that if Granpa had taken even one wrong step in any of these episodes, my father, myself, and my sons would not have existed.
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【JPN】
私の祖父は、2017年12月31日に97歳で亡くなりました。
「12月31日に亡くなるなんて、おじいちゃんらしいね」
葬儀の時に私がそう言うと、上の弟がつまらなそうに、
「そうか?1月1日まで生きたら生きたで、おじいちゃんらしいって言うんだろ」
と言ったのを憶えています。
祖父は2017年末に入院する直前まで、よく食べ、お酒もよく飲んでいたそうです。目がほとんど見えなくなってからはあまり歩かなくなり、そこから徐々に弱っていった印象はあったものの、それでもとても丈夫な人でした。
私が20代の頃だったと思いますが、ある夏、実家に帰省すると炊飯器が2つに増えていたことがありました。「どうしたの?」と母に訊くと、「おじいちゃんが堅いお米は呑み込めなくなったから… 別でお粥を炊いてるのよ」とのこと。この頃祖父は既に90歳近かったので、いよいよなのだろうか… と気持ちが沈んだ記憶があります。
冬に帰省すると、炊飯器は1つになっていました。おじいちゃん、ついにお粥も食べられなくなってしまったのだろうかと思って母に訊くと、「何のこと?」・・・
「ええと… おじいちゃん、堅いお米が食べられないから、お粥を炊いてるんじゃなかった?」
「?… おじいちゃんは普通に食べるわよ。」
母は物事をすぐに忘れるタイプなのでそれは驚きはしませんが、普通の食事を摂れなくなったと思っていた祖父が回復したことは、驚くとともに「やっぱりね」と妙に納得する思いでした。祖父は昔から、死の淵から必ず戻ってくる人だったので。父によれば、祖父はよく「俺の命は拾いもんだ」と言っていたそうです。祖父自身、何度も死んだと思ったのに、その度にギリギリのところで助かってきたからでしょう。
葬儀の前後に、祖父の文集を見つけました。祖父が65歳くらいの時に、むかし通っていた農学校のOBで制作した記念文集です。祖父のページに書かれていたのはほとんどが戦争のことで、その中に「俺は3回死んだ」という章がありました。
正確に翻訳できる自信がないため本文の抜粋は日本語のみとしますが、徴兵前に台湾で腸チフスのため重体となり、当時の勤め先には祖父は死んだとの連絡が行ったこと、戦時中、中国で小銃を持った敵兵と揉み合いになり危く死にかけたこと、同じく中国で手榴弾が降り注ぐ中を進み敵の基地を占領したこと(しかし味方にはなぜか祖父の小隊は全滅したと伝えられたこと)が書かれていました。祖父はそれぞれを、1回目の死、2回目の死、3回目の死と呼んでいます。
祖父が落としかけた命を何度も何度も拾ってきた(或いは拾われてきた)からこそ、父がいて私がいて子どもたちがいる。と思ったら、この文集の内容は私たちにも無関係ではない(むしろものすごく関係ある!)ことに気づき、いつか子どもたちも読めるようにHIVEに残しておくことにしました。これらのエピソードのどこかで一歩でも間違えば、父も私も子どもたちも存在しなかったと思うとゾッとします。
以下、本文(日本語のみ)です。
俺は三回死んだ
昭和十五年の春、台湾高雄市に於いて徴兵検査を受けた。期待通り甲種合格であった。
九月始め頃、十二月十五日岐阜の中部第四部隊に入営の通知を受け取った。
其の頃パイン農場では施肥の最盛中であった。俺の受持は約四十町歩だ。農場長より、施肥が終われば内地に帰っても良いと言われ、馬力を上げて作業していた。この分では、十月の終わり頃には家に帰れると内心喜んでいた。
九月二十日頃発熱、風邪と思い鳳山にある産業組合病院で受診した。しかし、よくならないので、高雄市にある総督府の高雄分院に転院し、通院が大変だので入院した。
二日後に腸チブスと診断され、伝染病棟に隔離された。其の夜寝台から落ちた。家政婦が三人ばかりで寝台の上に上げたのは現らに覚えている。
それから十日ばかり昼夜の判別がなかった。内地より親父が呼びつけられ看病に当たった。医者は九〇%だめだと言ったそうである。
三途の川を渡ろうかと思い、又入営のため内地に帰り、村の人達が見送りに来てくれていることのうつつの世界にあったのは、此の時分のことであるーーーすべて高熱のため。
会社に亡くなったという連絡が入り、早速通夜の支度をして酒まで用意したという。それでも一度病院に行って見てこようと二人の社員が来院、俺の親父に悔のことばを言った。
親父は驚いて「武雄はまだ息をしています」と言った。ーーーこれが第一回の死である。
死亡した別の人と間違えられたのである。後日、家政婦の言によれば、三つばかり或いはよくなるかもしれないと思ったことは、流動食事は全て飲み込み、時々ガスを放った。それに睾丸が下に垂れていた。その他は全部だめだったという。
昭和十九年四月九日、山西省稷山県下王尹の戦いである。
この作戦は?団作戦で、下王尹の部落は土壁で囲まれ、これに銃眼を開けその前に散兵壕を堀り、我々の攻撃に対し頑強に抵抗した。
攻撃を開始したが一向に進展せず、二時間ばかり攻撃が頓挫しその間に負傷者、戦死者が出てきた。
隣接の小隊長と相談して、歩兵操典にある「自ら動機を作為しての突撃即ち擲弾筒の爆裂の瞬時を捉えての突撃」を敢行した。
突撃発起後手榴弾二発を投げて来た。俺が徴兵壕に到達した時敵は小銃を握り銃口を上げた。俺は銃口を左手で掴み右手で斬りつけた。しかし相手の軍服が綿入れのため切れない。敵兵は刀身を握り二人で揉み合っていた。
この時、同じに突撃した兵が来て敵を斃し危いところを助けてくれた。
現在、山形市に住んでいるこの恩人に感謝し、毎年新茶を送っている。
これが二度目の死である。
十九年五月九日、第一軍山西派遣軍は、洛陽方面より退却する敵の退路を遮断する為、山西省垣曲県河底村より黄河を敵前渡河することになった。
山の中の細い道を折畳舟を五㎞ばかり担いで黄河に達した。この付近の黄河は流速三.五m、河巾五〇〇m、この内水三〇〇m位とある。
当日は一六日の月夜である。日没から月の出までの一時間に黄河を渡河して、一定の線に進出を命ぜられていた。そして俺の所属している中隊に与えられた任務は、敵のトーチカを迂回して後方に聳える二〇七山頂の占領であった。戦略上の要衝である。
中隊長は十字の白?、俺は右から左に白布を掛けた。
手榴弾の雨の中を進み山頂を占領した。
留守部隊では、落合小隊全滅が伝えられたとのことであった。金鵄勲章を手中にしたと思ったが、論功行賞がなくてこれは夢と消えた。(この戦闘は、防衛庁防衛研究所戦史室著、作戦一号河南の会戦にある。)
これが三回目の死である。